

・・・ふさわしくないままで・・・
すべての人間の体は衰えていっています。脳細胞は毎日死んでいます。神さまはこの衰えを阻止するための解決策を与えてくれているのです。超自然的な方法で助けてくれるのです。
よくあるのが、1コリント11:27にある、「・・・ふさわしくないままで・・・」の解釈がまちがってしまっているのです。
“Do not take it in an unworthy manner!” であって、儀式的に受けたり、皆がやっているからとか、空腹のゆえだったりではいけないのです。初代教会において、彼らは、聖餐式のすべてが何を意味するかを信じないでやっていたのです。だから信仰が掻き立てられて放たれることがなかったのです。
小さなパンくずかもしれない、でも神の子どもたちに用意されているパンです。聖書に出てくる女性はテーブルから落ちるパンくずを求めてイエスさまのところにやってきました。そして、彼女の娘から悪霊を追い出したのです。
だから、信仰が解き放たれると、小さなパンくずでさえもあなたの体に癒しをもたらすのです。でも、「単なるパン」という態度なら・・・・
イエスさまはパンと杯の2つを分けました。一緒にして一つのものと扱いませんでした。体の癒しと罪の赦し!
最後の晩餐で、パンを最初に差し出しました。「とって食べなさい。わたしのからだです。」夕食の後で、「とって、飲みなさい。」というように、イエスさまは2つを分けました。それぞれが、異なった役割があるのです。
1コリント11:29-30
“In an worthy manner”「 わきまえないで」は、あなたの振る舞い、行動で、やり方を意味します。ふさわしくない人を意味しません。あなたがふさわしい人かどうかではなく、あなたのやり方が正しいかどうかを意味しています。
イエスさまの体が粉々に砕かれました。だからあなたの体が癒されるのです。正しくわきまえるなら、あなたはふさわしく聖餐式に預かっているのです。イエスさまはふさわしくない者たちのために死なれました。ふさわしくない者だけが主の晩餐に預かることができるのです。ふさわしい者(罪のない者)なんて誰一人いません。すべてのリーダーたちを含め、すべての人がふさわしくない者です。イエスさまは、私たちふさわしくない者のために死なれました。そして私たちがすべての良きもの受ける資格を与えてくださったのです。
罪のない人間は存在しません。私たちの肉体に罪が宿っています。(ローマ7)
この現実が、私たちが祝福を受けることのハンディになりません。なぜなら、イエスさまはふさわしくない者のために死なれたからです。
ふさわしくないやり方、ふさわしくない態度で、聖餐式に預からないようにしましょう。祝福を逃してしまうことになりますから、儀式的にやらないようにしましょう。
v29の「みからだをわきまえないで」するなら、v30 For this reason many are weak and sick among you, and many sleep.「そのために、あなたがたの中に弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」
もしこの真理が分かって、みからだをわきまえるなら、逆のことが言えて、私たちは強く、健康で、長生きするのです。
この真理がもたらす副作用があります。実年齢より若く見えるようになるでしょう。主のみからだをわきまえるなら、副作用があります。
個人的に、私は、程よく食事に気を付け、運動もします。自分の運動に信仰をおいていません。イエスさまの完成された御業に信頼を置いています。運動は楽しいからしています。病気になるかもしれないとか、早死を恐れたり、義務からする食事法や運動は、ストレスになりますし、継続が難しいでしょう。時間の問題でしなくなってしまうのです。
ですので、私たちの心がイエスの十字架上での完成した恵みで確立されるべきで、食事法や運動に自信をおくべきではないのです。
聖餐式に解決・備えがあります。それは、すべてイエスの完成した御業のおかげなのです。